不動産のさくら
株式会社 櫻不動産
10月号  №101 
発行日 平成23年9月24日
こんにちは、みなさん。お元気でお過ごしでしょうか?9月も暑かったあ~!と思いきや、台風で寒かったりで私は少々体調不良です。さて、関西電力からこの夏の節電の結果が報告されていましたが、予想に反して、電力に余裕があったとのこと。ほんとうによかったです。皆の協力があればできるのですね。これを機にガマンできることはガマンして、これからもずっと節電するのがいいのではないでしょうか。この調子でみんなで節約しましょう!! ということで、今月もはりきっていきますよ~。

♪ おいしいお菓子 かりんとう ♪

先日、お客様からとってもおいしいものをいただきました。東京浅草の「小桜」(こざくら)さんというお店のかりんとうです。 名前が「小桜」ということで、さくらのつつみで統一されていて、とてもかわいい感じでした。ピンクのさくらのがらの手提げ袋、さくらのがらの包み紙、透明ながらもさくらの花びらが描かれたかりんとうの入った袋と、全てさくらで統一されているのです。 私のところもさくらなので、いろいろ気にしているのですが、今回の小桜さんのこだわりようを見て感心しました。ぜひ皆さんに見てもらいたくて載せてみました。(白黒でゴメン) 私はこういうグルメにはうといもので当然、小桜さんのことは知らず、ネットで見てみると、“東京かりんとう御三家”の一つとのことで、かなり有名なお店のようでした。どうりでおいしいと思いました。(←わかっているような、いないような・・・^^;) もし、東京浅草に行かれたら「小桜」さんにぜひ寄ってあげてくださいませ。 K様、ありがとうございました。

§ 壮絶 早川徳次氏 §

先日、結婚以来23年間使っていた電子レンジがついに壊れてしまいました。しかし23年間も一度も故障なしに働き続けてくれとは、あっぱれとしか言いようがありません。テレビ、冷蔵庫、洗濯機、ビデオなど家電製品は使用回数が多いので何台も買い替えるのは仕方ありませんよね。しか~し、我が家のビデオカメラも一度も故障なしで6年間使用(壊れた理由は屋外でテントの水が上からどっぷりかかってしまったので)さらに、エアコンも21年間一度も故障なしで働き続けてくれたのですよ。 その丈夫な電子レンジもビデオカメラもエアコンもいずれもシャープ製でした。 ということで、我が家の家電製品の自慢が長くなりましたが、題名の「早川徳次」氏とは、あの‘世界の亀山モデル’のシャープ株式会社の創業者(会社を作った人)の方です。パナソニックの創業者、松下幸之助氏は皆さんよくご存知だと思いますが、私はシャープの創業者の早川徳次氏のことは全く知りませんでした。先日「知致(ちち)」という雑誌に特集されているのを読んで初めて知ったのです。 その早川徳次氏の人生があまりにも壮絶だったので、ぜひ皆さんにご紹介したいと思い、取り上げさせていただきました。簡単ながらお話させていただきますね。 早川徳次氏は比較的裕福な家庭に生まれたそうですが、母親が結核(けっかく)という病気で倒れてしまい(昔の結核はなかなか治らない病気)徳次氏は3男ということもあり、2歳の時に養子に出されたのでした。徳次氏の両親は養子に出した先のご夫婦に子供がいなかったこともあり、徳次氏を大事に育ててくれるだろう、との思いで養子に出したそうです。 しかし、その養親の母親はすぐに病死してしまい、徳次氏の母親として次に若い母親が来たそうです。その若い母親がとんでもない鬼母で、幼い徳次氏に次々と虐待(ぎゃくたい)の限りを尽くしたそうです。食事を与えないのは当たり前、なぐる、けるの暴行、真冬の夜に便所の肥溜め(こえだめ=昔は下水がなく、うんこやおしっこを壷にためていた)に突き落とすなど、近所の人も目をおおう虐待だったそうです。学校から帰るとマッチの箱はりの内職をさせ、勉強などさせずに夜中まで仕事をさせていたそうです。 そして、鬼母はとうとうその仕事をさせるために徳次氏を小学校2年生で学校を辞めさせたのでした。いよいよ近所の人が見るに見かねて、養親に丁稚奉公先を紹介して(鬼母にとってはそのほうがお金になるから了承したと思われる)徳次氏はそこに奉公することになりました。(丁稚奉公=ある一定の期間住み込みで働き、衣食住は保証するが休みや給料はほとんど無い生活)丁稚も相当つらいのですが、徳次氏は食事が出ることと、少ないけど給料がでることに安堵したのです。がしかしそれももつかの間、あの鬼母が毎月の給料日になると、徳次氏にお金をせびりにきたそうです・・・。 しかし、徳次氏は丁稚先の金具製造の会社でめきめきと腕をみがいていきます。ところがやがて、会社がつぶれそうになり、ほかの丁稚さんもどんどんいなくなり、最後は徳次氏だけになりました。そんな時、社長が仕事中に大やけどをしてしまい、仕事ができなくなり、その会社はいよいよ倒産か、というところまで来たのでした。 その時なんと、徳次氏は鬼母からなんとか守った、すくない給料からこつこつと貯めた5円ものお金を社長に手渡したのでした。(当時の5円がどれくらいの価値かはわかりませんが、社長にとっては大変ありがたいはず。この状況で丁稚の少年が自分の身をけづって貯めたお金を社長に渡すなど考えられないことです。) そのかいがあったのか、その後なんとか会社は持ち直したのです。引き続き丁稚として働く徳次氏はすっかり腕のいい職人に成長し、11年もの丁稚奉公の期間が終了しました。その後、さらに2年半のお礼奉公(お世話になった会社に無給で働くこと。現在は有給ですが)をし、この間に金具の工夫やちょっとした発明をすることを楽しみにしていたようです。 そして、その期間についにベルトに穴をあけないで締められるベルトを発明したのです。このベルトを「徳尾錠(とくびじょう)」と名づけ、特許をとり、これが大変よく売れたそうです。(このベルト、今でもありますよね。) 世間の評判を聞きつけたのでしょうか、このころに徳次氏は2歳から生き別れになっていた実の兄弟と再会することができ、自分の本当の両親の話や養子に出された事情を知ったのです。その後養子を解消し「早川徳次」にもどったのでした。そしていよいよ丁稚を終え、18歳で独立したのです。(ちなみに、独立する時に、丁稚先の会社の社長の奥さんが祝い善(お祝いの料理)で祝ってくれ、社長から紙包みを手渡されたそうです。その紙包みにはなんと、徳次氏が以前に手渡した5円が入っていたそうです・・・。いや~、この社長も素晴らしい!!私もほんとうに感動しました。) さあ、いよいよ独立です。もちろん借金もあるので、朝は4時半に起き、暗いうちから仕事にとりかかり、朝食までに1日分の経費を稼ごうと決め、夜は10時まで働き、あとは寝るだけ、という毎日だったそうです。そんな努力のかいもあり、借金は返済、なによりも助かったのが、あの鬼母が来なくなったことだった。(徳次氏が実の親が早川家だった事実を知り、養子を解消したからと思われる) とにかく、その後も気を緩めることなく、次の新製品や発明に時間をついやし、今度は水道用の器具でまたしても特許をとり、これも売れに売れまくったのです。従業員も増え、事業も順調に流れ、今度は「繰り出し鉛筆」なるものの改良にとりかかりました。そう、現在のシャーペンです。 当時のシャーペンはセルロイド製(セルロイド=すぐに割れる、あのプラスティクみたいな薄いやつ)で弱く、押し出し式でもなく、中で芯がすぐに詰まり、故障ばかりだったそうです。それを金属製に変え、工夫に工夫を重ね現在のシャーペンの形を作ったのです。改良というよりも画期的な発明と言ってもいいものだったそうです。徳次氏が長い丁稚時代に金属ことを熟知し、精密な仕事をして腕を磨いた証しでした。 しかしこの画期的なシャーペンはセルロイドから金属に変わったことで、重いとか、冷たいとか、持ちにくいとか、文句ばかり言われ、どこも相手にしてくれず、日本国中どこの文具店も取り扱いをしてくれなかったそうです。 そんなある日、外国から注文が来ました。シャーペンは大変な評判で外国ではたくさん売れたのです。そしてこのときに徳次氏は「繰り出し鉛筆」を“エバー・レディー・シャープ・ペンシル”(常備芯尖鉛筆=じょうびしんとつえんぴつ)と名づけたそうです。 外国で売れているという評判を聞きつけ、今度は日本国中の文具店から注文が入りだしたのでした。これを機にシャーペンの製造・販売の会社を作りました。実兄とともに「早川兄弟商会」という会社を創業したのです。 その後もシャーペン関連で特許を取得、シャーペンも売れに売れ、売り上げは倍々で伸び、工場も拡張。従業員は200人、半期に給料の10ヶ月のボーナスを出し、徳次氏の個人資産も相当なものになり、さらに第3工場も建設工事が始まりました。 このころ徳次氏はまだ29歳。結婚して2人の子供さんにも恵まれ、2歳からの地獄のような苦労が報われた、と思われる素晴らしい人生と未来が見えていました。 ところがこのあと、徳次氏にあの地獄のような幼いころの試練以上の、さらなる人生最大の悲劇が起こったのです・・・。                       次号に続く。 月刊「知致」9月号 作家 北康利氏「日本を創った男たち」より掲載。

☆ 新幹線ボーイ?! ☆

先日、日帰りで九州の福岡に行ってきました。新幹線で行ってきたのですが、新幹線でかかせないのが車内販売ですね。で、実はなにを隠そう、私は新大阪~東京間の新幹線で車内販売のアルバイトをしていたのです。そうです、通路を行ったり来たりするあの仕事です。 今でもあるのかなあ~、学生相談所。そこで見つけたのが新幹線での車内販売の仕事でした。給料は安かったのですが、鉄道好きの私には好都合の仕事でした。 近ごろの車内販売員は、ピシッとした姿ですべて若い女性の方で販売していますが、当時は女性がワゴンを引いて販売し、男の学生のアルバイトは手にカゴを持ち、いろいろなものを販売していたのですね。私は当時から声がよく通り‘あなたは声が大きく、聞こえやすいのでちょうどいい’なんて言われていました。 車内販売は新大阪を出ると早速販売開始です。時間帯によるのですが、午前中ならサンドイッチと飲み物を、昼ならお弁当、午後はおつまみやおみやげ、夕方は弁当とビールとおつまみ、そしてお土産やアイスクリームなど、もういっぱい売るものがありました。当時は新大阪~東京が3時間でしたが、時間の経つのが早いこと。気がつけばもう東京?という感じでしたよ。 勤務は基本的に1往復です。新大阪を夜出発する便は東京で泊まりになり、翌日の始発の新幹線で帰ってきて1往復になります。「ひかり号」も「こだま号」も両方に乗るのですよ。 どちらが忙しいと思いますか?そうです、「ひかり号」のほうが断然忙しいのですね。お客さんのほとんどが新大阪~東京の3時間たっぷり新幹線内に滞在し、16両編成で約1000人ほどいるので、けっこう忙しいのです。さらに夜出発のひかり号は大変忙しく、東京に着いてからも宿泊する会社の寮で、新幹線用の鍋や食器の洗い物があるので不人気でした。 これに対して「こだま号」は各駅に停車するので、お客さんの出入りが多く、新幹線内での滞在時間が短いので、あまりものを買わないのです。アルバイトの学生は勤務日を選べるので、なるべくこだま号に乗れる勤務を選びます。なので、乗っている時間は長いけどヒマで楽ちんなこだま号の勤務に集中し、なかなかこだま号には乗れないのです。 私はそもそも新幹線に乗ることが楽しみでしたので、自分の勤務できる日にある新幹線に乗っていましたので、不人気のひかり号に乗ることが多く、こだま号には数回しか乗ったことがありませんでした。でも、ひかり号での販売はよく売れるので楽しかったですよ。  新幹線が静岡に近づくと‘静岡名産田丸屋のわさび漬けいかがですかあ~♪♪’と声をかけて売り、浜松付近ではうなぎパイ、名古屋近辺ではういろうなどを販売していました。 残念ながら勤務は6ヶ月で終わり短かったので、有名人に会ったのは1回だけ。当然グリーン車で、その有名人は黒柳徹子さん。まあ、テレビと同じであの頭で、かん高い声で‘ちょっとあなた~、アイスクリームくださる~’と言われアイスクリームをお売りしました。 今ではないと思うのですが、当時は社員さんが新幹線の個室の乗務員室(運転席ではありません)の鍵をもっていて、いつでもはいれるのです。何度かそこで支給された食事を食べたのですが、1人では充分な個室で、もう、最高に嬉かったなあ~。しかも食事は食堂車で作ったごはんなので、ほんとうにおいしかったのです。やさしい社員さんの時はおかわりを何杯ももらってくれたのですが、そうでない社員さんのときはおかわり無し。悲しかった・・・。(;;)(ちなみに浜松名物「うなぎ弁当」は新幹線内で作っていたので炊きたてのごはんに焼きたてのうなぎで最高においしかったです!!!←これは有料でしたが・・・。) とまあ、こんな感じで楽しくも真剣に新幹線の車内販売をしていたのでした。今では規則、規則、売り上げ、売り上げでこんなことではないでしょう。古き良き、いい時代だったのかもしれませんね。ということで、好評?!の「思いでのアルバイト話」第3弾でした。

§ 編集後記 §

先月、小春だよりが100号を迎えたのですが、お客様からお祝いのお電話をいただけたり、メールをいただけたりで、ほんとうに嬉しかったです。ありがとうございました。 その中から、石川様からのメールをご紹介いたします。 『 石川です。お久しぶりです。 100号おめでとうございます!!いつも楽しみに読んでいます。そして、もう一ヶ月たったのかぁーと思って読ませて頂いています。私は転職してからも元気に頑張っていますよ。子供も娘二人に恵まれ、やっと少し落ち着いたかなあっ~と思えるようになりました。  また時間見つけて遊びにいきます。今でも、吉野家の牛丼の話を聞いてもらった時を覚えています。あの時の苦労が今の自分に役立っているのだと思い、くじけずに前向きに頑張って行こうと思います。 それでは1000回目指してこれからも頑張ってネタ作りお願いします! 
石川様、ありがとうございました。石川さんは当社の新事務所移転後にすぐにご契約していただいた、ありがたく、非常に印象深いお客様です。石川さんは当時転職するかいなかの真っ只中、私もいろいろとお話を聞かせていただき、この人ならきっとどこに転職されても成功するだろう、と感じたことを覚えています。その後転職され、予想どおり順調にいっています。私も石川さんに負けないようがんばりますね。ありがとう。でも1000回って、あと75年もかかるのですけど・・・。 お世話になった仲間が100号記念パーティーを開催してくれました。 このほかにもたくさんの方からお電話、メールでのお祝いをいただきました。ほんとうにありがとうございました。