不動産のさくら
株式会社 櫻不動産
11月号  № 102
発行日  平成23年10月23日

みなさん、こんにちは。お元気ですか?先日、物件の関係で三田市に行ったのですが、途中の山道の道路沿いに栗がたくさん落ちていました。野生の栗のようで、車に踏まれてたくさんの栗が道路でつぶれていました。私は思わず車を止めて、ふまれていない栗をもらったのです。まあ、野生といってもどこかの誰かの所有の山なので、ドロボウ?!になるのですが(汗)、まあ、これくらいはいいですよねえ~。少し小さめでしたが、甘くておいしい栗でした。残念ながら松茸は食べませんでしたが、ささやかな秋の味覚を楽しんだ10月でした。
そしていよいよ冬支度が始まる季節になりましたね。何やらこの冬も節電しないといけないようで、寒さに弱い私には、ちと辛い冬になりそうです・・・。 ということですが寒さに負けず、今月も元気にいきましょう!!

♪ 勝負師?!♪

AAAAAAAAA日は我が家の勝負師をご紹介しましょう。小学校4年生、9歳のギャンブラー?!です。先日、台風の影響で学校が休みとなり、たまたま水曜日で私の休日とかさなったので、尼崎に住んでいるじいちゃん、ばあちゃんと一緒にココエ尼崎にお昼ごはんを食べに行ってきました。
コエ尼崎に初めて行ったのですが、今はやりのショッピングモールで、施設も飲食店もなかなか充実していますね。私の中では、“尼崎”と言えば阪神電車の「尼崎駅」付近というイメージで、にぎやかなパチンコ店や飲み屋、食べ物屋、バーやスナックなどなど、いろいろなお店があり、にぎやかな商店街に人がいっぱいと言うイメージでした。
コエ尼崎はJR尼崎駅前のまん前で、すぐ近くには高層マンションもどんどん建ち、阪神百貨店も入り、尼崎の中ではマイナーだったJR尼崎駅前もずいぶんと立派に変わりましたね。これからもマンションが建設されるなど、おしゃれな街として発展しそうです。
て、我が家の勝負師の話ですが、ココエ尼崎でお昼ご飯を食べたあと、妻とおじいちゃん、おばあちゃんは3人で買物したり、お店を見たい、とのことで私と子供たち2人はゲームセンターでゲームをすることになりました。
時のゲームセンターはコインゲーム(コインを入れてルーレットを回したりして当たれば何枚か出るゲーム)ばかりですね。私の小学生のころの10円入れてクレーンでラムネを取るゲーム(←皆さん、知ってますよね???)とか、ボールを転がして穴にいれてアメが出てくるゲーム(←これも知ってますよね???)みたいな単純な子供だましのゲームはないのですねえ~(-◇-)
っそくコインを100枚買って、長男と次男にそれぞれ50枚づつ渡しました。まあ、いろいろなコインゲームがありますが、長男の方は1枚づつ入れてゆっくり、じっくり遊ぶゲームから始めました。当たっても1枚~5枚くらいです。
かし、次男坊は、そんなゲームはせずに、コインをたくさん入れると入れるだけ倍率が上がるゲームをするのでした・・・。まあ~かけっぷりが見事で、5枚とか7枚とかいっきに入れるのです。しかも、それが、かなりの確率で当たるのですわ・・・。
の目の前でコインを9枚入れたので、「そんなにかけるとすぐに無くなるから、もう少し、2枚とか3枚にしたら?」というと「そんなん、当たってもちょっとしか出ないからいやや!」というのです。そしてそのままコインを9枚投入。すると、な、な、なんと12倍のラインで当選!!!9×12=108枚のコインがじゃらじゃらと出てきたのでした・・・。
の後もかけっぷりは見事で、さすがに108枚はないものの、20~30枚は当たり前。私もおこぼれをもらいするのですが、全然ダメ。長男もおこぼれをもらいするのですが、これもだめ。まあ結局は次男坊もどんどん無くなり、最後は1枚づつかける、ゆっくり、じっくりのゲームで終わったのでした。
は賭け事はまるっきりダメです。あるトランプのゲームで10・10(じゅうじゅう)というゲームがあります。2、3人~6、7人でするのですが、絵札を抜いて1から10のカードで勝負します。まず皆に手札を2枚配ります。そして2枚の合計数字で1回ごとに勝負をするというゲームです。手札が2と7なら合計9です。他の人が8以下なら勝ち。しかし同じカードが2枚(いわゆるゾロ目)来ると強く、10と9で合計19でも2と2とかのゾロ目の人がいればその人の勝ちとなります。その中でも10が2枚きたら最強なのです。これを何回も繰り返し勝負するのです。
、6人でこのゲームをしました。合計100回くらいしたでしょうか、そのゲームで、ある人にばかり集中して最強の手札10・10が来るのです。結局30回くらいその人に来ました。他の人もだいたい10回くらい来ましたが、なぜか私のところにはたったの2回だけ。
然その日の勝負は私のボロ負け、ということがありました。最強の10・10が来る確立はどの人も同じですよね?なのに一人は30回、一人は2回って、どう考えても納得できませんよ。私はこの時につくづく自分にはギャンブルの素質がないことを悟ったのでした・・・。
まあ、私のギャンブル不向きな話なのか、次男の勝負師の話なのか、よくわからなくなってしまいましたが、とにかく次男坊は今後がかなり心配です。 今からどんどん負けさせて、賭けるゲームというのは負けるのだよ、と教えないと・・・。

* 一言、申します。 *

近、牛丼店の「すき家」さんに強盗が多発している、と言う記事を読みました。何やら警察も前々から牛丼店の強盗で、特に「すき家」さんに入られることが多いので、改善を要求していたようですが、なかなか改善されず、ここにきてようやく改善の検討に入ったようです。
ぜ「すき家」さんが多くの強盗に狙われるのか?この理由は明らかでした。深夜の時間帯にアルバイトの店員が1人で勤務しているからです。他の牛丼店の吉野家さんと松屋さんでは深夜でも2人体制で営業しているそうで、強盗が入りにくいようです。吉野家さんも松屋さんも防犯もかねて、人件費をかけているわけですが、すき家さんはそうではなかったので、そのツケがきているのですね。
も以前、すき家さんに食事に行った時に、子供の注文したものが来なくて、店員さんに‘子供の注文したものがまだ来ませんが、どうなっていますか?’と聞いても‘しばらくお待ち下さい。’と言って奥にはいって、何も言ってこないので、再度‘さっきの注文の件ですが、どうなっていますか?’と話したところ‘そのメニューは本日販売しておりません’と言われたのです。
らば、「なぜ始めに注文した時に言ってくれなかったのか?」と「その後に注文がこないことをお伝えした時にも何も言わずにほったらかしだった」ことで、社員さんとお話したいと申すと、その店員さんは、なんと‘本日社員は来ません!’というのでした・・・。
いうことで、私の場合はたまたまだっただけかもしれませんが、経費、コストを下げすぎるとアルバイト教育にしても手が回らずに、このようなことが起こるのですね。
き家さんは警察の要望に対して、「防犯は大事だが、経営も大事。防犯を軸に店舗を作ってきたわけではない」、「2人で勤務している店でも強盗に入られているので1人勤務が原因とは思わない」と話し、これまで改善をしなかったようです。
前ラーメン店で深夜1人で勤務していたアルバイトの店員さんが強盗に会い、命を落とした事件もありましたので、すき家さんにはこれを機に心を入れ替えていただきたいと思います。 
ということで、一言、苦言を申させていただきました。

§ 壮絶 早川徳次氏 その2 §

今月も引き続き、シャープ創業者の早川徳次氏の話をします。その前に前回のかんたんなあらすじを。 『早川徳次氏は比較的裕福な家庭に生まれるも、母親が病気のためわずか2歳で養子に出されました。しかし養子先の継母にこれ以上ない虐待を受け、悲惨な幼少期をすごします。小学校を2年生で辞めさせられ、その後の少年期は11年にもわたる丁稚奉公で苦労を重ねました。  しかし、職人としての腕を磨き上げ、丁稚終了後のお礼奉公のときには「徳尾錠(とくびじょう)」なるベルトを発明し、特許を取得し大成功。  これを機に、2歳で分かれた実の兄弟と再会することができました。いままでのいきさつを知り、養子を解消。そしていよいよ「早川徳次」としてついに独立を果たすのでした。 独立後も不眠不休で働き借金を一気に返済、つぎなる特許商品も発明し、会社は大繁盛。さらに今度は世の中にある‘繰り出し鉛筆’なるものを、徳次氏がきづきあげてきた職人の究極のわざで画期的な改良に成功。これを“エバー・レディー・シャープ・ペンシル”(常備芯尖鉛筆=じょうびしんとつえんぴつ)と名づけた。(現代のシャーペンです。)これが世界各国で大ヒット。これにより徳次氏の会社は大いに繁盛、軌道にのりました。 結婚して子供2人にも恵まれ、さらに会社の規模も大きくなり、従業員は200名をほこり、第2工場の建設も始まろうかとしていました。幼少期の悲惨なころ、少年期の丁稚の苦労が報われ、まさに、これから先の明るい未来が見え始めていたのでした・・・。』
次氏はこれまで不眠不休で働いてきたことで、ある日、過労による腸出血で倒れてしまいました。一時は命の危険もあったそうですが、その後何とか回復。療養をかねて温泉に行くことになりました。
さんと子供2人に見送られて家を出た1時間後、東京地方に強烈な地震が発生したのです。死者10万人以上になった、日本史上最大の被害を出した、そう、あの関東大震災です。
れまで築き上げてきた徳次氏の会社、家、工場は一瞬にして崩壊しました。関東大震災はお昼時に発生し、大火災があちこちで発生。火が風にあおられ熱風となり、人々は火と高温の熱風から逃げるため、池や川に飛び込んだそうです。
のころ、徳次氏の妻は家から2人の子供を連れて逃げていました。しかし、あたり一面火の海です。火と熱風から何とか逃れるために一時川の中に逃げたのです。川の流れに流されないよう、6歳の次男をおんぶして、9歳の長男をかかえ、川の中の杭(くい)にしっかりとつかまって火の勢いが収まるのをじっと待ったのです。
ころが火は収まるどころか、ますます勢いを増すばかり。川の中でどれくらいの時間がすぎたのでしょうか、意識が遠くなってきたその時、背中が急に軽くなったのです。はっ、と思うと、おんぶしていた次男が流されてしまったのです。あわてて次男をつかもうとして手を伸ばした瞬間、今度は長男が流されてしまいました・・・。
供たち2人が目の前で流されてしまったのです。最悪の事態でした。奥さんはその後、どこをどうさまよったかもわからないまま避難所にとどりつきます。そして徳次氏と再会しました。が、徳次氏に「すみません、子供たちを・・・」と話すも、奥さんは泣くばかり・・・。
して奥さんはこの2ヵ月後に子供たちのあとを追って自らの命をたってしまったのでした。なんという運命。言葉がありません。このときの徳次氏の気持ちは語られてはいませんが、想像すらできません。(このたびの東日本大震災も、あの阪神淡路大震災もたくさんの人々に深い、深い悲しみを与えました。天災とは、人々に多大な試練を与えるのですね・・・。)
次氏は関東大震災で会社と家族と全財産を失い、さらに、被害のなかった大阪の会社から借金の返済を迫られました。(事業が順調でも、ある程度の借り入れはどこの会社でもあるので。)大震災で全財産を失い借金など返せるあてもありません。徳次氏はその会社にシャーペンの特許を無償提供(ただであげること)し、シャーペンのノウハウを売ることにしたのです。
かし、この大阪の会社はシャーペンの特許とノウハウをもらったものの、よくわからなったようで結局、徳次氏に技術指導に来てもらうことになりました。徳次氏は震災の翌年、生まれ育った関東から知らない土地、大阪にやってきたのです。
日が経ちこの会社での技術指導にもめどがたったのと、格安で土地を借りられる話が来たので、ここで徳次氏は再び大阪で会社を作ることを決意しました。そして会社は「早川金属工業所」と名づけました。(その後「早川電機工業」に改名)再起の場所は、今現在もシャープ本社のある場所でした。
の頃、東京ではラジオの放送が始まり、ラジオの時代がやってきました。徳次氏は大阪でのラジオの放送開始までに自社製のラジオを完成させるべく昼夜研究にあけくれ、ついにラジオを完成させました。早川電機工業が製作したそのラジオは「シャープラジオ」と名づけ、国産ラジオの第1号だったのです。
のラジオも大いに売れたのですが、その後の第二次世界大戦と戦後の混乱により今度は倒産の危機に直面しました。戦後の物不足で製品が作れないのと、アメリカの経済政策による今までにない不可抗力(自分の力ではどうすることもできないこと)での危機でした。しかしここは金融機関の助けにより切り抜けたそうです。(シャープさんの社史によると、この時がシャープの歴史の中で最大の危機だったようです。)
して危機を乗り越えた後には戦後最大の家電ブームが来ました。徳次氏はその家電ブームの主役のテレビに研究段階から目を付けていて、またしても早川電機工業が国産テレビの第1号を作ったのでした。
かし他社も次々と自社テレビを開発、生産し、世の中にテレビがどんどん普及するにつれて他社の販売力に圧倒され、徳次氏の早川電機工業のテレビは常に2番手、3番手。開発技術では先行するも、いつもライバルの後ろ姿を見ていたのでした。しかし、その後も徳次氏は常に開発技術重視の姿勢は変えずに、昭和34年にはなんと、太陽光発電の研究もすでに開始していたのです。
して昭和45年に徳次氏は決断しました。社名を「早川電機工業」から「シャープ株式会社」に変更したのです。社名から「早川」の名前を消し、社長を引退。次の世代にバトンタッチしたのです。
動車のホンダの創業者、本田宗一郎氏が引退後に「私の失敗は社名に‘本田’と入れてしまったことだ。会社は個人の持ち物ではないから」と話していたと言いますから、ここでも徳次氏の決断にはおどろきます。(トヨタ自動車や松下電器=現パナソニックのように全く関係ない会社もたくさんありますので、これは経営者個人の判断によりますが。)
の後、次の社長、佐伯旭(さえきあきら)氏は徳次氏の期待に見事にこたえ、シャープをさらに成長させ、徳次氏と肩を並べるほどの名経営者となりました。が。)
して、シャープの成長を見届けながら、昭和55年に早川徳次氏はこの世を去りました。86歳でした。愛情を受けることがなかった、あの地獄のような幼い日々、苦労の連続の丁稚の少年時代、そしてやっと幸せを掴んだと思ったとたん、一瞬にして幼い子供2人と会社、妻、全てを無くしてしまった青年時代、さらに戦後の混乱期で倒産しかけた壮年期・・・。
次氏のお通夜には、一番に松下電器の松下幸之助氏が飛んで来たそうです。その時松下幸之助氏も85歳、高齢で病気がちだったにもかかわらず、秘書に両脇をかかえられて一番に来たそうです。長年のライバルへの深い感謝と敬意だったようです。

前回と今回で早川徳次氏の壮絶な人生を軽々しく語ってしまいましたが、私は23年間一度も故障することなく活躍してくれたシャープ製の電子レンジとエアコンに早川徳次氏を思い、役目を終えた電子レンジに「23年間ありがとう」と手を合わせ、そっと回収置き場に置いたのでした・・・。

シャープ株式会社創業者、早川徳次氏。その人生、幸せだったのかな・・・。北康利氏の記事を読んで、私は胸が苦しかったです。
月刊「知致」9月号
  作家 北康利氏 日本を創った男たち 「独創こそわが命 早川 徳次」より掲載。(一部加筆)

§ 編集後記 §

それにしても、トランプのカードだけは「運」のみですよね?競馬は馬の調子、過去の実績とか考えるし、マージャンなら配られたパイから発想し、パチンコなら台を選ぶ、という選択もあります。しかし10・10は配られた2枚のカードで勝負がつくのですから、まさに「運」のみ。なので、私はよほど「ギャンブル運」がないということですね。
まあ、神様が“君には賭け事に縁がないからやめときなっ!”と気づかせてくれたのですね。そのおかげ?!で、いろいろ他には‘運のいいこと’がたくさんありますから。ほんと。
ありがとう神様。感謝しま~す(^^)


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